歌詞作りについて・S/N比の高い歌詞(作詞)

前回のブログ記事(

良い文章の書き方なんて難しすぎるから俺得な文章の書き方ぐらいで行くことに(漫画・小説) - ミキリハッシャブログ )では、テンポのいい文章を書くためにはという文脈でノイズを払う重要性を書いた。

作詞においても、ノイズの混入を防ぐという態度は重要、というか作詞においてこそ重要だと思うのでその辺を書いていこう。


そもそも自分が曲を聞くときに、歌詞がどのような役目を果たしているのか考えてみる。

曲の世界観の醸成。ある。

メッセージの訴求効果。それもある。

あるが一番の役目は、「響きが単調になるのを防ぐ」ことだと思う。

DADADA...やLALALA...と、例えばボブ・ディランの語尾の使い方とを聞くと、後者の「響きそのものの味わい」が、曲にいかに力を与えているかを痛感させられる。

というわけで自分は歌詞の第一義的な要素は単に響きだという説を推します(英語わからないくせに洋楽リスナーだからってのも入ってるかもしれない)。


さて、その前提に立ってどんな歌詞がいいのか考えてみると。

まず浮かぶのが、「内容はともかく響きのよさげな言葉を並べた歌詞」だが、

違うのだ! 内容をさておいてはいけない。何故かと言うと、そこに文章(歌詞)があるのに意味がわからないと、人は「意味を気にしてしまう」からである。

この「意味を気にする」という雑念が、ノイズなのだ。


冒頭に帰って、自分はノイズの混入を防ぐ、と書いたが、「雑念」が起きるのを防ぐと書けばよりわかりよいかもしれない。

雑念の起こらない歌詞。歌詞の意味を拾うことにストレスを感じない歌詞。

それはつまり、「響き」に注力できる歌詞なのである。


ここでもう一つの極端な例、「意味を拾うことにこだわるあまり説明的になってしまう歌詞」も却下される。

響きの要素――韻律とか言葉の選び方が弱くなるからだ。もちろん、強ければいいのだけれど。


響きの要素の中には韻律というか語尾が多くを占めるが、それ以外の言葉の選び方もある。

例えば、ジョン・レノンが「I Don't Believe in Beatles」といったとき、"Beatles"は言ったのがジョンであるゆえに、単に害虫というよりも大きな響きを持つ。そういう、言ってみれば時事ネタ的な響きだってある。

とにかく大事なのは、その歌詞が持っている響きを、雑念=ノイズに邪魔させないこと。

そのためには、過度に説明的にならず、過度に抽象的になってもいけない中庸の道が、近道なんじゃないかと思う。

良い文章の書き方なんて難しすぎるから俺得な文章の書き方ぐらいで行くことに(漫画・小説)

春はあけぼのだが文章はリズム。

リズムのいい文章はまさに俺得。

(まあ嫌いな文章にリズムがいいなんて形容をしないだけかもしれないが)

そこでどうすれば文章にリズムが出るのか考えてみたよ。

1.無駄を省く

自分はよく「まあ」とかそれに類する言葉をつけすぎてしまって省くのだが、書いたままの文章は無駄な表現があるかもしれないので見直し推奨。

気になったらビシバシ省く。好きな文章なら見返してくれるので(自分は見返すので)ちょっと説明不足でも大丈夫。

2.論理的に

論理的と言っても別に小難しく書けというわけではなく、内容のつながりが明確であればいい。

内容のつながりを明確にするには、文章のつながり部分に気をつける。具体的には、「でも、」「しかし、」「◯◯と言っても、」「◯◯だが、」と言った、読点を入れようと思えば入れられる場所。そういう場所が出てきたらちょっと注意して、つながりが明確でなかったら明確にする(どうやってかは…任せる)。

3.句読点、改行

同じ文章でも適度に間隔を開けて欲しい。個人的にはスカスカなくらいのほうが好みです。そして覚えていると思うけどここは俺得な文章の書き方なので、スカスカ推奨。

4.天丼!

人間は繰り返しに快感を覚える生き物なのだよ。だから韻文が発達したわけで韻文とまではいかなくても繰り返しの表現にするのはリズムをよくする方法の一つ。

一つ、だが、この天丼は「気にならない程度に」して欲しい。気になるほどの天丼はただのノイズとして扱われてしまい(自分に)、1.無駄を省くの対象となる。


以上、2>1>3>4の順に重要だと思う。なぜ1234の順にしなかったのかという疑問が湧くが、いきなり論理的とか言われたらちょっと怯むでしょ? と思うからいいのだ。

では、各自頑張って俺得な文章を書いてください。俺のために。

 

自分的開放弦を含んだコード進行(ギター)

最近ハマっているのが、開放弦を含んだコード・ボイシング

例えばAのコードを弾くときに、2弦を開放にすると9thの音が加わって少し物憂げになる。

これはいわゆるAの押さえ方

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でもいけるし、6弦ルートのAの押さえ方

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でも綺麗だ。後者が好きだな。

で、そういった開放弦を含んだコードを進行させる際の思考法。


  1. キーを決める
  2. 開放弦が、そのキーに対してどの音にあたるのか見て、使えそうな音だったら開放する
  3. 後はパワーコードとかでゴリ押し!

1.のキーを決めるについては、ほとんど2.(開放弦が、そのキーに対してどの音にあたるのか見る)と同時に行う。

例えば、

  • キーをE♭にしよう→3弦のGが長3度の音として使える
  • キーをEにしよう→2弦のBが5度の音として使える

という判断の仕方もあるし、

  • 1弦のEを使いたい→キーCならEの音は長3度だからキーCにしよう

という逆転した順番で発想することもできる。

そして、3.。パワーコードとかローコードの押さえ方とかでゴリ押す。


例えば、キーをEにして、1弦のE,2弦のBを開放することにしていたとする。

コード進行は、E C#m A Bでいく。

その時基本開放弦以外の部分は、パワーコードのフォームを保ったままで、

  • EPower + 1,2弦E,B
  • C#Power + 1,2弦E,B
  • APower + 1,2弦E,B
  • BPower + 1,2弦E,B

こういう音の構成になるようにコード進行する。完成したのはE C#m7 Aadd9 Bsus4というコード進行になる。パワーコードとは思えない響きを得ることができる。


 リフに活かしてみても面白いとは思うが、けっこうこれ、左手が難しくてなかなか採用に至らない。でも面白いよ。

本の魅力と本の機能(漫画・小説)

ってなことをつぶやいたのでそれを広げてみる。

本の魅力と機能が違う、ということは以前からちょっと思っていた。Yahoo!知恵袋とかでよくある質問に「本を読むとどういういいことがありますか」というのがあって、「趣味なんだからいいことを求めるのは違うだろー」と思ってはいたのだが、でも厳然として本を読むとなんかいいことがあるらしいというのは(世間一般に)ある。

そこで自分の脳内で矛盾しないように生み出したのが、「魅力」と「機能」の2分割。本を読むと楽しいという効果と、ためになるという効果、二つが同時に存在しているというわけだ。

例えばスポーツをやるのだって、単にスポーツが楽しいからやる人もいれば健康のためにやる人もいるだろうし、この分割はいろんなところで存在できるんじゃないかと思う。


さて、「楽しいという効果」と「ためになるという効果」。「楽しい」のほうは説明は不要だろうが、「ためになる」というのが曖昧というか宙に浮いたようなというか、よくわからない。

先のツイートでは、「比喩のレパートリーが増える」という効果を持って「ためになる」を説明している。

「比喩のレパートリーが増える」? それって、「語彙が増える(まあ、これもある)」のよりもマイナーな効果じゃないか、と思うかもしれないが、自分は比喩のレパートリーが増えることが重要だと判断している。

物事を考えるとき(例えば、人を殺してはいけない理由とはなにか)、論理から余分なノイズを省くために、喩え話を使うことがある。

例えば、「人を殺してはいけない理由」から、「警察に捕まるから」というのを省きたい。そこは本質的じゃないだろ、という理由で。

それで「例えば、絶対完全犯罪になるトリックを知っていたら、人を殺す?」という喩え話が登場する。それでも殺さない、ということになれば、「じゃあ、"警察に捕まるから"は直接関係ない、ノイズだったのだな」と理解できて、話が前に進む。

ブレインストーミング的などんどんアイデアを出す時ならともかく、話を前に進めたい場合、本質をはっきりさせたい場合は、喩え話の効果が必要になってくる。

そして喩え話を操るのに、比喩のレパートリーが必要になってくるわけですよ(つながった)。


 フィクションなら、そもそも丸ごと全部喩え話だといっても過言ではない。何を例えているのか明かされる場合は少ないが。

例えば、主人公の前にライバルが立ちふさがれば、それは「貧困VS富裕層」だったり「才能VS努力」だったりといった価値観のぶつかり合いに発展する。作者が意図していようがいまいが、読み取ることはできる。

そしてそういうのを読み取るうちに、自身の中の「関係性」を読み取る力がレベルアップして、喩え話を操る力が高まり、思考力が高まる、と。そういうわけですよ。たぶんね。

なぜに人を殺してはいけないのか(よもやま)

この重大問題をなんとなく考えてみることにした。

意見1 人を殺してはやっていけないよ派

人間も動物であり、長い生存競争をくぐり抜けてきた。

同士討ちを頻繁に起こすような生物は、そもそも生きていけないよ、という意見。

一理あるが、これは単なる歴史的事実であり、善悪を語ってはいない気がする。

自分が欲しいのは倫理的な答えだ。

意見2 神様が決めたんだよ派

十戒にも人を殺してはいけないとあるようだ。また、まずたいていの古代の国には殺人罪があり、国の主権は神様が与えたもの(王権神授説)だとすれば、たいていの神様は殺してはいけないと考えている。

これは、まあ、そうなんだが、では神様はどうして殺してはいけないと思ったのかという疑問が。なんか素晴らしい理由があるはずだろう、神なんだから。

意見3 やればやられるよ派

人を殺せば、人を殺すような人だと思われる。つまり法律が守ってくれない。

ゆくゆくはひどいめにあう。誰かに殺されるとかね。

かなり現実的な考え方だが、人を殺してはいけないというのはメリットとデメリットの問題なのか? もっとなんか、絶対的な理由がほしいな自分は。

ここまでのまとめ

ほしい答えが出ない。というのは、どうやら自分にはほしい答えがあるようだ。

メリット・デメリットの問題や単なる歴史的事実ではないもの。メリット・デメリットも歴史的事実も、パラメーター次第でもしそうじゃなかったら? というifがあり得る。そうではなく、人間の思考の過程で必然的に人を殺さなくなってほしいようだ。

それでは

人間の思考の過程で必然的なものはなんだろう。

快・不快

人を殺すのは不快である。たぶんそうだろう。自分だったら血を見るだけでけっこういやだ。

でも、例えば、スイッチを押すだけで人を殺せる装置が開発されたとしたら? それでも人を殺すのは悪であろう。殺人は増えるだろうが。

つまり、快・不快は理由の一つであっても、全部じゃないな。今までのもそうだけど。

平等

これはマイケル・サンデルの本から取ってきた考え方で、まず、自分が次の人生をどう生きるか分からないとする。

例えば、次の瞬間、乞食になるか金持ちになるか、スポーツ選手になるか科学者になるかわからない。

その状態でルールを考える。それは、平等なルールのはずだ。

――で、その平等なルールはたぶん、殺人を禁ずるだろう。自分が強くなるか弱くなるかわからないんだから。

さすがサンデル、今までより迫れた気がする。

つまり殺人を禁止する理由は、強い人と弱い人の間の不公正をなくすため?

うーん、でも、先ほど排した「それが成り立ちだから論」に近い気がするなあ。

自由

人に殺されるのは自由を奪われることだ。というのはみんな同意する。問題は人を殺す自由だ。

人を殺す自由は、実は自由なことではないと証明しなければならない。

うーん、人を殺したら、「その人と仲良くなる自由」が失われるな。つまり自由の自由度合いが減るな。

これをわかりやすい言葉で表すと、人を殺すのは「取り返しがつかない」な。

だからか? これもなかなかの理由だ。実際、取り返しがつかない要素が減った時(植物人間状態とか)には人は人を殺しかねない。そしてそれは悪とは言い切れないと直感が囁く。

つまり殺人を禁止する理由は、それが「取り返しのつかないことだから」?

じゃあクローン技術が浸透して、脳のデータもコンピューターを使ってコピーできる時代が来たら、人は人を殺す?

どうなんでしょう……?

結論

わからん。疲れた。

まあこれだけ考えたからには、自分は人を殺さないだろう。それだけでもよかったよかった。

バランスを取るゲー(ゲームアイデア)

一人でギター弾きながら歌うたったりすることが多いのだが、そんな時思うのがバランスの大切さ。注意力というリソースの割り振り。

現在はギターの右手と左手、歌の息の使い方と音程、歌詞、全体的なリズム、あたりを気にしているのだが、当然全部フルに注意するわけにはいかないので優先順位というか「注意力の割り振り」が必要となる。

そこで、注意力を割り振りするゲームを作ったら面白いんじゃないかと考えた。

音楽ゲームじゃなくてもいいが、まあここは音楽ゲームとして話を進めると、

 

とりあえず「リズム」、「音程」、「歌詞」の3つの要素が提示される。

プレイヤーは「リズムに30」、「音程に50」、「歌詞に10」などと注意力を割り振り。

曲中に「リズム的難所」などの「難所」があり、そこはある程度の注意力がないと失敗してしまう。

次々襲い来る難所に対応して注意力を再配分しまくるという、アクション要素のあるゲーム。

 

これの難しいところは操作性だよなあ。

方向キーが各要素に対応し、Aボタンと同時押しでリソース割り振り、Bボタンと同時押しで回収、とか。

操作してるだけで楽しい、というところを目指したい(作るわけじゃないけど)。

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セクションチェンジ時のコードチェンジ(作曲)

教則本などで多いのが、ドミナント・コード(V)からサブドミナント・コード(IV)に進行はしないよ! 例外はあるけどもね、という説明。

そして例外として、ブルースの12小節進行を挙げることが多い。

しかし実際には、ブルース進行の形でV→IVを使うことはあまりない。

むしろ多いと思うのが、セクションチェンジの時。

例えばAメロとBメロがあるとして、Aメロの最後がV7でBメロの最初がIVというのは普通にある。ジョンレノンのイマジンとかそんな感じだし。

セクションが変わる時は、調性の中である程度柔軟なコード進行が行われていると言ってもいいのではないか。

 

そんなわけでセクションチェンジ時のコードチェンジを考えてみる。

まず、セクションの終わりは、

  1. I
  2. IV
  3. V7
  4. VIm

たいていこの中のどれかだ。

セクションの始まりは、

  1. I
  2. IV
  3. IIm
  4. IIIm
  5. VIm

あたりが考えられる。

「イレギュラー」なのは「V7→IV」「V7→IIm」あたりだ。

 

でもよし!

 

それが実態に合ったコード進行の理論というものだと思う。