なぜに人を殺してはいけないのか(よもやま)

この重大問題をなんとなく考えてみることにした。

意見1 人を殺してはやっていけないよ派

人間も動物であり、長い生存競争をくぐり抜けてきた。

同士討ちを頻繁に起こすような生物は、そもそも生きていけないよ、という意見。

一理あるが、これは単なる歴史的事実であり、善悪を語ってはいない気がする。

自分が欲しいのは倫理的な答えだ。

意見2 神様が決めたんだよ派

十戒にも人を殺してはいけないとあるようだ。また、まずたいていの古代の国には殺人罪があり、国の主権は神様が与えたもの(王権神授説)だとすれば、たいていの神様は殺してはいけないと考えている。

これは、まあ、そうなんだが、では神様はどうして殺してはいけないと思ったのかという疑問が。なんか素晴らしい理由があるはずだろう、神なんだから。

意見3 やればやられるよ派

人を殺せば、人を殺すような人だと思われる。つまり法律が守ってくれない。

ゆくゆくはひどいめにあう。誰かに殺されるとかね。

かなり現実的な考え方だが、人を殺してはいけないというのはメリットとデメリットの問題なのか? もっとなんか、絶対的な理由がほしいな自分は。

ここまでのまとめ

ほしい答えが出ない。というのは、どうやら自分にはほしい答えがあるようだ。

メリット・デメリットの問題や単なる歴史的事実ではないもの。メリット・デメリットも歴史的事実も、パラメーター次第でもしそうじゃなかったら? というifがあり得る。そうではなく、人間の思考の過程で必然的に人を殺さなくなってほしいようだ。

それでは

人間の思考の過程で必然的なものはなんだろう。

快・不快

人を殺すのは不快である。たぶんそうだろう。自分だったら血を見るだけでけっこういやだ。

でも、例えば、スイッチを押すだけで人を殺せる装置が開発されたとしたら? それでも人を殺すのは悪であろう。殺人は増えるだろうが。

つまり、快・不快は理由の一つであっても、全部じゃないな。今までのもそうだけど。

平等

これはマイケル・サンデルの本から取ってきた考え方で、まず、自分が次の人生をどう生きるか分からないとする。

例えば、次の瞬間、乞食になるか金持ちになるか、スポーツ選手になるか科学者になるかわからない。

その状態でルールを考える。それは、平等なルールのはずだ。

――で、その平等なルールはたぶん、殺人を禁ずるだろう。自分が強くなるか弱くなるかわからないんだから。

さすがサンデル、今までより迫れた気がする。

つまり殺人を禁止する理由は、強い人と弱い人の間の不公正をなくすため?

うーん、でも、先ほど排した「それが成り立ちだから論」に近い気がするなあ。

自由

人に殺されるのは自由を奪われることだ。というのはみんな同意する。問題は人を殺す自由だ。

人を殺す自由は、実は自由なことではないと証明しなければならない。

うーん、人を殺したら、「その人と仲良くなる自由」が失われるな。つまり自由の自由度合いが減るな。

これをわかりやすい言葉で表すと、人を殺すのは「取り返しがつかない」な。

だからか? これもなかなかの理由だ。実際、取り返しがつかない要素が減った時(植物人間状態とか)には人は人を殺しかねない。そしてそれは悪とは言い切れないと直感が囁く。

つまり殺人を禁止する理由は、それが「取り返しのつかないことだから」?

じゃあクローン技術が浸透して、脳のデータもコンピューターを使ってコピーできる時代が来たら、人は人を殺す?

どうなんでしょう……?

結論

わからん。疲れた。

まあこれだけ考えたからには、自分は人を殺さないだろう。それだけでもよかったよかった。