人を殺してはいけないのは「人間原理」のせいなのか
この記事を思い立ったのはphaさんの日記(豚は殺してもいいけど犬は殺しちゃいけないのか - phaの日記)をニュースアプリで見かけたのがきっかけだが、本筋はあまりそことは関係ない。
「人間原理」という言葉をご存知だろうか。Wikipediaによると、
人間原理(にんげんげんり、英語: anthropic principle)とは、物理学、特に宇宙論において、宇宙の構造の理由を人間の存在に求める考え方。「宇宙が人間に適しているのは、そうでなければ人間は宇宙を観測し得ないから」という論理を用いる。
だそうである。
例えば、宇宙が始まった時に温度に「むら」があったという。そのむらがまわりまわってエネルギーになり、原子になり、ひいては人間になったという。
上の説明は大雑把だが、とにかくなぜむらがあったのか。別に均一な宇宙でもいいではないか。
そういう問題の答え方として登場するのが人間原理だ。この場合、むらが無かったら人間は誕生していないはず。なので人間が宇宙を観測する時、その宇宙には必ずむらがある。
同様に、
- なぜ宇宙は幅、高さ、奥行き+時間の4つで構成されているのか。
- なぜ地球はこんなにも生命に適した環境なのか。
といった質問にも人間原理で答えられる。そういう環境じゃなかったら、今あるような人間は生まれてこなかったので、人間が生まれている以上、今ある環境なのは当然だという論法である。
さて、人間原理についてわかったところで、それが「人を殺してはいけない問題」とどう関係するのか?
こういう筋道が立てられるのである。
- 過去には「人を殺してはいけない村」と「人を殺していい村」があった
- 後者は殺し合いで滅び、前者はまあ軋轢はあるにせよ生き残った
- 今現在、人を殺してはいけない文化が多数をしめているのは、「人を殺してはいけない村」でないと生き残れないからである
なかなか説得力のある説だと思う。しかし自分はこの説に賛成できないのだ。
まず、現在において人を殺してはいけない理由を見てみよう。
ツイッターに書いたことと重複するが、こういう流れだと思う。
- 人間は本来的に自由な生き物である。そして自由の侵害は許されない
- 殺人は究極の自由性の侵害である。から許されない
- 殺人にカウントされない殺人として、「戦争での殺人」や「正当防衛」がある
- 戦争での殺人は許容される(戦争がいいと言ってるわけではない)。それは、兵士たちがみな「国を守るため、危険に身を投じる」という同意のうえに戦闘を行っているからだ
- 戦争で民間人を殺すことは許されない。民間人には同意がないからだ
- 正当防衛が許されるのは、先に自由を侵害しようとしたのは相手側だという理由だろう
つまり殺人が許されないのは、人間が本来的に自由だからだ。自由を守るために殺人の自由を捨てたのだ、というのが自分の考えである(ちょっと社会契約論っぽい)。
さて、問題は、その本来的自由がどこから来たのかだ。
先の「人間原理」が成立するなら、つまり殺人が許されないのは殺人者の村が滅んだからだとするなら、本来的自由は「自然選択」によるものだということになる。
つまり、進化論と同様、「たまたま」人を殺さない人類が生き残ってきたことになる。
「たまたま」じゃ嫌だ! と思ったのだ。
しかしたまたまではなく、必然的に人間は自由なのだ、と唱えるのは難しい。
というか、宗教の領域に入ってしまう。
つまり、神が人を今あるように作られたなら、人間の自由さや人を殺すことをタブーと思う態度などは神の意志ということになり、必然的だということになる。
しかしそれじゃ、神様の、言い方は悪いが「気まぐれ」になってしまう。「たまたま」とそう変わらない。
それも嫌だ! と思ったのだ。
ここまで記事を書いておいてなんだが、自分はまだ解答を用意できていない。
人を殺さない理由である(と自分が思う)人間の自由を尊重する態度は、偶然の産物なのか。人間原理の賜物なのか。
それとも、何か理由があって、必然的なものなのか。
これからも暇なときに考えてみようと思う。