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宗教を持たない人も信仰はする

無宗教は無信仰なのか

日本人の多くは宗教を持っていない、あるいは仏教徒だけど熱心ではないくらいにとどまっているのではないだろうか。

しかし無宗教がイコール無信仰だとは限らないんじゃないかなと昨日本を読んでいて閃いたので書いておく。

宗教と信仰の定義

宗教の定義を、ここでは「目に見えない神聖なものを尊ぶための体系だった知識」とする。

また信仰の定義を、「目に見えない神聖なものを尊ぶこと」とする。

両者の違いは体系立っているかどうかである。異論は認める。

宗教と信仰のはざま

上の定義を採用すると、宗教はすべて信仰だけど信仰はすべて宗教ではない。

「信仰ではあるけど体系立っていないので宗教ではない」というポイントが考えられることになる。

例えばブッダさんはある真理を悟ったわけだけど、悟った時点ではまだ無名の信仰(というか、哲学?)だった。

サーリプッタとかその後の弟子たちがまとめた時点で今で言う「仏教」になった。

まったく別の例で、「ご飯粒を残すと目が潰れる」とかそういった民間伝承はまだ体系立っていないので、宗教ではなく信仰だと言えるだろう。

それでなにが言えるか

一つの危険があると思う。

「宗教の代わりに信仰を宗教の位置に据えてしまう」危険だ。

いや、宗教が信仰より偉いというつもりはない。

両者の違いはここでは「体系だっているか」なので、体系立っているけどいまいちな宗教とか逆に洗練された信仰もあるだろう。

ただ、無宗教に慣れた日本人の多くは、信仰の扱い方を知らないまま信仰してしまうこともあるのではないか。

信仰の不意打ち

時々、家に宗教の勧誘が来る。

彼らは宗教然として(宗教だから当然)、堂々と布教しているのだから、こちらも対処できる。

しかし例えば、学校で水に「いい言葉」をかければ水の結晶が「よくなる」みたいなのを教える、これは信仰の不意打ちである。

不意打ちに対しては一般論として対処しづらいから、その信仰を適切に判断できない。

よしと思うにせよ悪しと思うにせよそうだ。

このことがいい結果を生むとは思わない。

自覚なき信仰

あるいはこんな問題もありうる。

ある社長は、社長になる前に、頑張ればいいことがあるという教訓を得ていた。

それ自体はいいことだが、その教訓は信仰であり、信仰は自由だということを忘れ、社員にも頑張ることを強要した。

社長がそれが信仰だと気づいていれば、他人に強要したりすることもなかったろう。

対策

なぜ社長が気づかないのかといえば(この話の中では)、日本人が宗教慣れしていないからである。

信仰の不意打ちも自覚なき信仰も、いつ何時襲いかかって来るかわからない。

しかし日本人に宗教慣れさせるのに教育はあまり期待できない…というか、この方面で教育にフリーハンドを与えすぎるのはそれはそれでまずい。

自分たち個人が、信仰とはどういうものかに対し基礎知識を持っておくのができる最善だろう。