正解では無い結末に至る物語
物語とはなんだ そしてオチの必要はあるか
物語とは何か、
そんなことを決めるのは自分の手に余るが、
まあとりあえずキャラがいて行動があれば物語だと思う。
いわゆるテーマが必要かどうかは微妙なところだ。
例えばホメロスのイリアスは延々戦争してヘクトルが死んだところでスパッと終わり、
これオチたのか? と思ったような記憶がある。
(記憶の捏造かもしれない)
その「オチたのか?」という感覚がまさにテーマを必要としている人の感覚で、
現代人のものなのだと思う。
オデュッセイアの漂流生活と妻の待つ生活両方に区切りがついて、そこで終わるからである。
思い出せないやいや(ナウシカのあらすじを)
まあとにかく、オチのない物語もあるんだよということが言いたかった。
さて、「オチ」「テーマ」「区切り」「結論」「ゴール」など、視点に応じていろんな呼び方があるこのものが今日のテーマである。
このテーマに至ったのはつらつらとナウシカのことを考えていたからだ。
ナウシカのラストらへんで衝撃の事実が判明する。
ネタバレだしあまり覚えてないので詳細は書かないが、
なんかナウシカは「創造主」によってレゾンデートルを決めつけられた。
ナウシカは反発して「創造主」を倒したよ。
みたいな話だったと思う。
問題は創造主を倒すと当然ながらカオスが発生することで、
ナウシカは世界を予測不可能な領域に持っていってしまったことになる。
みたいな話だったと思う。
まあ、ナウシカのあらすじは本題ではない。
「一概に正解とも言い切れない」オチの形もあるということが言いたかった。
オチがあれば正解か 心なんて一生不安さ
さて、一概に正解とも言い切れないオチを設定してしまった場合、
宮崎駿はどうやって話を終わらせればいいのか。
やはり宮さんは抜かりがない。
登場人物の一人、ヴ王にナウシカの選択を即座に肯定させたのだ。
この肯定に、「論理的には」それほどの意味はない。
ヴ王の肯定の仕方は「気に入ったぞ」という形で、あくまでヴ王個人の意思であり、
まあ言ってみれば「個人の意見であり、ナウシカの正しさを保証するものではありません」な感じだった。
それでも作品は終わらせられたのである。
「物語的には」意味があったのだ。
「個人の意見であり、製品の効果を保証するものではありません」式のものには、
あまりいい印象を持っている人がいないかもしれない。
しかし、物語は芸術であり、芸術は人の心を動かすものだ。
「個人の意見であり」式でも、人の心を動かすために使えばいい感じになるのである。
演出はできそう それも無駄?
自分が好きなのはウェルズ「タイム・マシン」のラストだ。
タイム・マシンにおける未来は、階級社会が行き過ぎて人間が二つの種に分かれてしまい、そのまま滅びるという悲惨なものだった。
しかも主人公のタイムトラベラーは、タイム・マシンの誤作動か何かで行方不明になってしまう。
つまりめっちゃ悲観的な「できごと」なのだが、「印象」は明るいのである。
タイムトラベラーが未来で友人になった女の子から贈られた小さな花が、最後にクローズアップされるのだ。
これがもし直前のタイムトラベラー行方不明のシーンで切られていたら、悲観的なラストであったろう。
小さな花をクローズアップすることで、正解ではないエンドが結末としてうまく機能したのである。
I Want to Hear Me
というわけで、「プロット」「できごと」レベルでポジティブな結論を出せない(正解ではない)話でも、「演出」レベルでオチに至ることはできるのであった。
一時期「やおい」というのが流行ってて、ヤマなし意味なしオチなしという意味だったが、たぶんあれらも演出レベルでオチていたのではないかなと思う。
ところで正解ではないエンドをオトすことができるとメリットはあるのか。
まあ表現なんだから好きにすればいいのだが、メリットはある。
一つには「深み」の演出。
まあ「カッコいいヒーローが敵を倒す(BYこち亀)」よりはなんか複雑ではある。
一つには「微妙なテーマ」の扱い。
例えばLGBTについて書くとして、LGBTを肯定しすぎても否定しすぎても作品を壊してしまうだろう。
自分ならLGBTを肯定も否定もしない「筋」を書き、それでいて「演出」で同性愛やトランスジェンダーの印象をポジティブにすると思う。
論理的に結論が出せない場合であったり、論理的にすること自体で何かが崩れてしまう場合に、演出の力が重要になるのだ。
こんな世界になってちまって
なんとなく最近(と言っても何十年単位)「プロット」が重視されすぎてしまい、
演出レベルでの物語の語り方が軽視されている気もするのだよ。
なのだよ。