コンテンツは誰のものなんだろう たつき監督けもフレ降板に際して
前置き
けものフレンズアニメ版のたつき監督が監督から外れた(外された)らしい。
突然ですが、けものフレンズのアニメから外れる事になりました。ざっくりカドカワさん方面よりのお達しみたいです。すみません、僕もとても残念です
— たつき/irodori (@irodori7) 2017年9月25日
まだ情報が足りないので、このこと自体については結論を急ぎたくない。
でも気になるので、一般論としてコンテンツは誰のものなのか書いてみようと思う。
コンテンツホルダー候補
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原作者
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作者(二次創作以降)
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著作権者
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ファン
ファンは置いといて、原作者と作者と著作権者は似たような概念だ。
そこでまずそれらを区別してみよう。
原作者と作者と著作権者
例えば、Aさんの作品が大好きなBさんが、その作品の同人誌を書いたとする。
この場合Aさんが原作者でBさんが二次創作をした作者だ。
ところでAさんはC社を通じて作品を発表していたので、著作権を持つのはC社だったりするかもしれない。
この場合C社が著作権者だ。
この間、「こち亀」のコマをコラージュしたツイートを美術館の人が載せて物議を醸してたが、
「こち亀」でいうと
となる。
美術館の人は(それとクソコラグランプリしていたほとんどすべての人は)作者であっても、著作権者や原作者ではなかった。
場合によっては、原作者で作者で著作権者な人もいるだろう。
さらに言うと
二次創作を元に三次創作が行われたりした場合、作者であり原作者でもあるということもありうる。
「ラヴクラフト」作品をもとに「ダーレス」さんがまとめ上げたクトゥルフ神話、をもとに誰かがさらに二次創作した場合を考えてみよう。
ダーレスから見たラヴクラフトは原作者、
誰かから見たダーレスは原作者
誰かから見たラヴクラフトは原作者の原作者、
となる。
どの作品を元にして見るかで、原作者や作者の立場は変わる。
さらにさらに言うと
秋本治さんはパロディが好きだ。
「山上たつひこ」っぽいペンネームを使ったり、「ゴルゴ13」っぽい演出をしたりする。
「こち亀」が200巻あるとすると、1巻ぶんくらいはゴルゴでできてそうな気がする。
パロディまで行かなくても「影響」というやつもある。
初期の「ビートルズ」はけっこう「エヴァリー・ブラザーズ」っぽいし、他にも影響元らしきものはたくさんあるのだ。
巨人の肩
オリジナリティの塊のレノン/マッカートニーでさえけっこう影響を受けている。
果たして完全オリジナルなんて存在するんだろうか。
「ニュートン」は光学やら天文学やら物理学やら数学やらで革命を起こした人だが、自分は巨人の肩の上に立っているにすぎない、というようなことを言っていたらしい。
著作権はシンプル
影響やパロディやN次創作の網の目のようになった作者-原作者ラインに対し、
「著作権者」という存在はシンプルだ。
クレジットを見て載っているのが著作権者だ。ちゃんと処理していれば。
著作権者は作品によって収益を得たりできるし、作品を改竄されない権利を持つ(こち亀のコラの件はここに引っかかった)。
法的には作品は著作権者のものだ。
一方で
「作品はファンのもの」という意見もありうる。
自分としては「そうではない」と思う。
作品をコンテンツとして完成させることができるのはクリエイターのみだし、その点で「作者」が作者だ。
でもなんていうかな、価値ある作品というものがあったとして、その価値を受容するものがいて初めて価値は完全になると思う。
ファンは自分としてはコンテンツの保持者ではないが、コンテンツを全きものにする事ができる存在として無視して良いものではないと思う。
さてさて長かった
これら全部を前提として一般論を言う。
作品は誰のものか? という問題は非常に複雑で、いろんな人が絡み合っている。
よって
- 作品を生み出したり育て上げたから、このコンテンツは作者や原作者のものだ
- 作品の権利を持つから、このコンテンツは著作権者のものだ
- 作品は自分たちのためにあるように見えるから、このコンテンツはファンのものだ
とかいう意見はどれも危うい。
間違ってはないかもしれないが、反発を受けることにはなるだろう。
で、たつき監督の件
たつき監督の件はおそらく、「著作権者」が他のコンテンツホルダー候補の立場を無視しているととらえられ、反発を受けたんだと思う。
まだ情報が少ないので何があったのかわからないが…
少なくとも「作者」に「残念」な感情を与えることは正解ではなかったろう。
今後うまくことが運ぶことを祈る。
とりあえず今日はこれで。