ドラマーの友人がいない場合のDTM

ドラマーの希少価値

DTMerの裾野が広がるにつれて増えていると思う、ドラマーの友人がいないDTMer。

あるいはドラマーの友人がいたり本人がドラマーでも、録音環境は用意できないという場合もありうる。

つまりは生録でないドラムでどうにかしなければならない人たちである。

自分もそうだ。

ドラムは言うまでもなく重要なパートであり、ここを生録にできないとなるとなんらかの対策が必要である。

以下にその対策を述べる。

1.生ドラムをシミュレートした音源を使う(ロック、ポップ、ジャズなど)

正攻法というか、一番わかりやすい解決策だ。

Addictive DrumsやAbbey Road Drummerなど、ドラム音源の中でも生ドラムを意識したものを使って、生録の代替とする。

ただ、ドラマーが演奏してるかのような打ち込みをするのは、いかに音源が優れていても手間と技術が必要。

2.生演奏のMIDIデータや音声データを使う(ロック、ポップ、ジャズなど)

ドラムループというやつだ。

前述の生ドラムシミュレート音源にはたいてい、ドラマーが演奏したMIDIデータがついてくる。それを読み込む。

あるいはいっそのこと、生演奏を切り貼りしやすいように加工したループを手に入れても良い(DAWに最初から入ってたりする)。

もとが演奏なので、「ドラマーが演奏しているかのように」するのは楽だが、小回りが効かない。

3.いっそ打ち込みで行く(テクノ、ヒップホップなど)

いや、生ドラムをシミュレートした音源でも打ち込むことは打ち込むのだが、この場合はドラムマシンもしくはドラムマシン風音源を使う。

「ドラマーが演奏しているかのように」する必要もなくなるし、逆に演奏しているかのような打ち込みも可能だ(生演奏とは音色が違うからハードルが低い)。

というわけでメリットが多いし、自分も最近はドラムマシン風音源を使うことが多くなってきているのだが…

ジャンルが限定される!

生ドラムが使われるジャンルはロック、ポップ、ジャズとか数限りなくあるし、

ドラムマシンが使われるジャンルもテクノ、ヒップホップ、EDMなど生ドラムより少ないにせよある。

しかし越境しづらい。

無いことはないのだが(レッチリとかはヒップホップ育ちの生ドラムなんじゃないかな)、限られる。

自分としてはロックの膨大な作曲上の「語彙」を、ドラムマシンのグルーヴでうまく表現できないかと思っており、それが最近の課題になっている。

 

こともく 今年の目標

新年なので目標を立てたい。

そして新年に目標を立てることから脱したい。

というのは、本当は目標なんていつだって立てればいいのだ。

あえて新年に立てなくても。

ただ自分はあまりにも怠惰なので、目標を立てて守るということに慣れていない。

そこで「ちょうどいい機会」を欲し、その機会が元日とかその他記念日なのだ。

最初は新年とかに目標を立てて、それを守る。

それがうまく行けば、新年以外に目標を立てて守ることもできるようになるだろう。

とりあえず今日からだ。

今日、目標を立てよう。

どんな目標がいいか。

結局、自分の最大の弱点は継続性だと自分では思う。

作曲以外のことはいまいち続いていないし、作曲にしてもあまり予定を立てて予定通りに作るということができていない。

(去年のM3にアルバムを出したが、最終的には間に合ったものの計画的にものを作ることの難しさを悟った)

そこで継続性を高めるような目標を立てようと思う。

目標を立ててそれを守る過程で、計画性についてもいい影響があるはずだ。

1.トルストイの「文読む月日」を読む

この本はトルストイが各地の箴言を集めたもので、ちょうどよく1日ごとに項目が分かれている。

例えば1月1日に8個の箴言、2日に7個の箴言が書かれている。

これを1日1ページ読もうと思う。

2.ブログの更新

これについては、2段構えで行く。

1週間に一度、例えば土曜日あたりに更新する、定期更新。

そしてネタが見つかったとき気まぐれに更新する不定期更新だ。

この2段構えによって週1の更新を守りつつネタの鮮度を失わない予定。

3.曲の投稿

作曲自体はそんなに苦ではなくけっこう簡単に作れるのだが、投稿となるとけっこう大変だ。

最近は(ニコニコに投稿する場合)動画の背景もグラデーションのみにしたり、簡略化を図っているが、それでも手間がかかっている。

そこで準備して定期的に(月1回、下旬あたりに)投稿することに決めておくことでいい効果があるのではないかと思う。

曲ができたら早く聞いてもらいたくてすぐ投稿していたが、それを是正するということを目標にしてみよう。

まとめ

というわけで、こともくこと今年の目標は、

  1. 毎日 トルストイを読む
  2. 毎土曜日 ブログ更新
  3. 毎月下旬 曲投稿

の3点を「継続」させることとする。

けっこう大変そうだけど、やってみよう。

プライドの対象をアップデートしなきゃセキュリティホールががが

自尊心イズ必要

人間には自尊心が必要だ。

なぜなら、自尊心はあれこれの選択の基準になる、判断の依って立つ根拠になるからである。

…文章が固いのでもうちょっと柔らかく言い直すと、

例えばあなたが作曲をしていて、メロディAとメロディBで悩んだとする。これがあれこれの選択。

あなたはメロディAがいい、と思う。これが判断。

しかし、メロディの良し悪しのような多様な価値観が反映される物事に、白黒をつけるのは容易ではない。

あなたは迷うかもしれない。自分の判断でこの曲の出来栄えが大きく変わるのに、決定的な判断材料がないのだ。

そういう時に力になるのが自尊心である。

確固たる自分を持っていれば、判断をした時にきちんと責任が取れるのだ。

自尊心レスイズ困る

逆にいうと、自尊心のない人は判断に責任が取れない。

メロディAがいいように思うが、そう思う自分自身が信用ならないのでは、はっきりとしたことが言えないだろう。

というわけで、自尊心は世間的な成功にも、内面的な満足感にも関わってくる。

早く自尊心を確立したほうがいいのだが、そこに落とし穴(セキュリティホール)が潜んでいる。

自尊心イズハードトゥーマッチ

自尊心を持つ対象は、更新しづらい。

…またよくわからない表現になったので説明しよう。

例えば、Aさんは自身の「知識」に自信を持っていた、としよう。

昔から本をよく読んでいたから、歴史に詳しいし、「歴史から学ぶことができる」という点を判断の拠り所としているのだ。

しかし自信を持っていたがゆえに、Aさんの「知識を重要視する姿勢」はアップデートされなかった。

時代が急激に変わったことによって、例えばAIがすごく発達したりとかしたことによって、「個人の知識」は時代遅れになるかもしれない。

そうなったらAさんは自身の判断の拠り所を失い、判断力が低下することによって人生とかいろんなものに悪影響を受けてしまう。

「知識」はそれでも影響を受けにくい要素だ。「体力」とか「コミュ力」とかのほうが加齢により落ちかねないのでヤバい。

自尊心ズジレンマ

要は何かを自尊心の根拠にすること自体が、その何かに依存しすぎることになって、セキュリティホールになる。

しかし自尊心を持たないわけにもいかない。

というわけで重要になって来るのがアップデートだ。自尊心の依って立つ対象を、現在の自分にとって適切なものにするのが大事なのだ。

自己分析イズ重要

そのアップデートに重要なのが自己分析であろう。自己分析で自分が何を武器にすべきかを理解し、それを大事にする=自尊心を持つ。

絶え間ないアップデートこそが楽しく生きる秘訣なのだ。たぶん。

今回はちょっと抽象的な話になってしまったがあれだ、ブログ復帰して早くもネタ切れが始まったのだ。

頑張って気楽に書こうと思う。気楽に。

義憤は崇高、そして危険

前提 義憤は素晴らしい

人のために怒ることができる人は素晴らしい。

無関係な人のために怒ることはなおさら良い。

直接の利害がない分、ある種の純粋さ、人間性の発露のようなものがそこにはある。

しかしながら、義憤には危険もある。

部外者の知識しか持たないのに、突然当事者のように問題に関わることになるのだから、混乱が生まれる可能性が高い。

アルスラーン戦記の例

アルスラーン戦記奴隷解放がらみのいきさつが記憶に残っている。

アルスラーンが倒した敵の奴隷を解放しようとしたら、奴隷は主人の仇であるアルスラーンに襲いかかって来た。結果、奴隷は返り討ちで死んだ。

これはアルスラーンが、奴隷解放を唱えてはいても奴隷の実態(主人を慕っている奴隷もいる)を知らなかったから起きた不幸である。

実はすべては軍師ナルサスの掌の上だったりするのだがそれは置いといて、

こういう不幸は、世間でもありふれていたりしないだろうか?

アルスラーンはいい子

アルスラーンは王子ではあるが生い立ちが特殊だったりでフラットなものの見方ができる人物である。

そういうアルスラーンの目から見て、奴隷は解放されるべき存在だった。

奴隷解放は、我々の時代と同じく、おそらくは正義なのであろう。

そしてそういう正義、あるいは正義と信じるもののために行動を起こしたアルスラーンの感情は、義憤と同様、崇高だと言える。

いい子なのになぜミスったか

ではなぜアルスラーンの解放は悲劇に終わったのか。

それは目的が立派でも、手段が下手だったからである。

アルスラーンは主人を殺された奴隷にいきなり解放を告げるべきではなかった。ひとまず捕虜にするとかなんとか、ワンクッション置くべきであった。

ではなぜそのワンクッションが置けなかったのか。

アルスラーンが奴隷の実態を知らなかったからである。

問題は、知識なのだ。

言えること

義憤が素晴らしいものであることには変わりない。

ただ対象に対する知識なき義憤は、場合によっては失敗し、かえって対象の迷惑になる。

怒るのはいいが、その怒りをいったん胸に秘め、冷静にことを進めるべきだ。

……ってナルサスさんが言ってました。

余談

ナルサスは奴隷の子供を解放して部下にするなど、この問題についてはアルスラーンの先をいっている人物だ。

フラットな目を持つアルスラーン奴隷解放を考えてくれていることは、ナルサスにとって嬉しかったに違いない。

アルスラーンはフラットであると同時に、王子という力も持つ。

部外者である権力者の義憤という、パワーとしての大きさに問題解決の期待を寄せないはずがない。

…があえてアルスラーンに試練を与えるあたり只者ではない。

その辺が完璧超人すぎてなんかムカつくのだが、義憤はナルサスを見習って慎重に行動に移すべきであろう。

 

映画や小説のストーリーにルールなんて無い 定石があるだけ

まず状況説明

GIGAZINEにこんな記事が載っていた。

gigazine.net

この記事によると、映画や小説のストーリーにはルールがあって、それは

「1.YOU」「2.NEED」「3.GO」「4.SEARCH」「5.FIND」「6.TAKE」「7.RETURN」「8.CHANGE」という8つのポイント

 を持ち、この順番に出来事を発生させているということらしい。

例に挙げられているのはスター・ウォーズのパート4だが、他にも当てはまるものが多くありそうだ。

特に「1.YOU」は強力で、物語で最初に主人公を紹介するというのは論理的にも実際のデータ的にも確かな論拠を持っている。しかし!

これは「すべて」のストーリーに当てはまる「ルール」では断じてない。

前述のルール? が当てはまらない例

例えば刑事コロンボ。「主人公」ではなく「敵役」の犯人が先に登場する。

いや、この反論にはさらに再反論はできる。コロンボは「狂言回し」であり、物語の実質的な主人公は犯人なのだ、と。

それではこれはどうか。「ダンジョン飯」の宝虫の回では、主人公のライオス一行が出るまでに別の冒険者一行(ガングロチーム)が出てきて宝虫にやられる。宝虫の脅威を描くことが主題の導入である。

しかし主人公はガングロでも宝虫でも無いだろう。あくまでライオスが主人公である(マルシルも主人公っぽいがあれはジョジョ4部の康一くんにあたる)。

が、主人公の定義について語りたかったわけではない。「すべて」ではないよということが言いたかっただけだ。

そして、「ルール」も否定したい。

そもそもルール? がおかしいという論

というかこちらを主に否定したい。

一体、物語にルールなんてあるのか。

あるように見えなくはない。例えばミステリには「アンフェア」という評し方があり、アンフェアという言葉は暗黙の「フェアなルール」を想定しているように思える。

しかし、アンフェアな傑作もある。「アクロイド殺し」は(ネタバレ)で(ネタバレ)なためアンフェアという評価が多かったようだが、傑作であるとの評価もまた多い。

ミステリにおけるルールとは、「それをするとミステリだと見てもらえますよ」というマナーだと思う。

そしてルールを破ったとしても、ミステリだと見てもらえないという問題はあるものの、ストーリーではある。ストーリーは成立している。しつこく書くが、ミステリではないとしてもストーリーは成立している。

ミステリに「アンフェア」という言葉があるからといって、ストーリーにルールがあるとは言えないのだ。

ルールなんてないさ ルールなんて嘘さ

やはりストーリーにルールはないと思う。定石、セオリー、マナーはあるとしても。言葉遊びみたいで恐縮だが。

スター・ウォーズの脚本家を含む多くの作者が前述の1.から8.のポイントをおさえて制作しているように見えたとしても、それはルールだからそうしているのではない。

そうしたほうが売れるから。

……というのが身もふたもなさすぎるとすれば、そうしたほうが効果があるからだ。

ダンジョン飯の宝虫の回を思い出せば、あの回でガングロ一行の描写に冒頭のシーンを割いたのは、宝虫の習性を描写しておいたほうが、ライオス一行の紹介をするよりも、効果があるからである。

連載ものだから、ライオス一行のことをすでに読者は知っている、という特殊な事情もある。

効果が高いと判断すれば、1.から8.のポイントはおさえなくてもよい。

もちろん九井諒子が、物語の形式について深い洞察をしているからこそ、あえて外すことができたわけである。「ひきだしにテラリウム」を見れば九井諒子のちょっと歪んだお約束への愛情がわかる。

結論

  1. 物語にはルールはない
  2. しかし、そうしたほうが効果が高いことが予測できる、いくつかのパターンはある
  3. マルシルはダメっ子かわいい

てか、SoundTrapやってる? オンラインでつながることの可能性

SoundTrapの紹介

「Soundtrap」というサイトというかWebアプリがある。
www.soundtrap.com

要はオンラインでの音楽制作アプリで、ログインすればどこでも作曲できる。

この手のものの中では大手のようで、音源もエフェクトもそれなりに揃っている。

昼休みにちょろっと遊ぼうと思って始めたのだが、当然ながら同僚の目に留まり、自分が作曲・別の同僚が作詞というコラボが始まってしまった。

その詞がなんかピュアで、自分はテクニックに走りすぎていたかもしれないなと思わされたりしたのだが、本題はそこではなく。

バイルやクラウドの利点1

バイルやクラウドの可能性である。

自分はモバイルアプリや、さらに発展したクラウドを利用したアプリを、外でもできる(モバイル)、どこでもできる(クラウド)と捉えていた。

そして外でも・どこでもできる利点を、考えたことを形にする速度の早さだと考えていたのだ。

歩いていてちょっとメロディが浮かんだりすることは誰にでもあると思うが、家に帰ってから書き留めるのと、モバイル・クラウドでその場で録音なりして記録するのでは、速度が違う。速度は鮮度にも通じるし、速いこと自体が快適だ。

ジョンレノンはインスタント・カーマをあっという間に作ってあっという間にリリースしたらしいが、ジョンほどのアーティストでなければそこまでの環境は整っていなかった。他のアーティストやあるいはアマチュアミュージシャンがあっという間に作ってあっという間にリリースするには、Web時代を待つ必要があったのだ。

バイル・クラウドの利点1:アイディアを腐らせない

自分はモバイル・クラウドアプリの利点を、ジョンレノンのインスタント・カーマのようにやれることだと捉えていた。思いついたアイディアを鮮度の高いうちに形にしてしまう快適さ。

しかし、他の可能性は見落としていた。「どこでもできる」ということは、コラボレーションしやすいということでもある。

バイル・クラウドの利点2

例えば会社の昼休みに、同僚とコラボレーションできる。これはクラウド時代じゃないとちょっと無理だ。

そこで思い出したのだが。

会社で同僚とコラボっちゃったのは、技術が距離を縮めた例といえるが、その縮め方は自分(筆者)が移動するというものだった。

しかし情報だけ移動させるやり方もある。いわゆるネット上でのコラボである。

バイル・クラウドの利点2:コラボレーションの輪を広げる

実は前述のSoundTrapには、一つのプロジェクトを共同で作業するというGoogle Docsにも似た仕組みがある。

ネット上で誰か、アメリカ人だったりヨーロッパ人だったりアジア人だったりと距離を飛び越えてコラボできるかもしれない。

そっちのほうが「未来」な感じがする。

でもネトゲーもあまりやらない対人恐怖症な自分は、たぶんそういうことはしない気がする。対人恐怖症は時代にも置いていかれるのである。

プリンス良いよね あるいはアーリーアダプターとして生き残るには

プリンス良いよね

たぶんギターマガジンだったと思うが、プリンスのインタビューが載っててPC+DAWでの作曲について「昔からつまみをいじって曲を作ってきたから違和感はない(ドヤア)」みたいなことを言っていたのを思い出した。

プリンスが時代の先を行っていたのは間違いない。「I Would Die 4 U」という曲では「強弱の無いハイハットの16分打ち」が聴けて、音のバランスはちょっと違うけど、2000年くらいのR&Bのアレンジだよなあと思ったりする。

プリンスはドラムマシンを使用してのファンクが特徴的で、現在のR&Bとかソウルでのドラムマシンの存在感を考えてみると、まさにアーリーアダプターだ。

プリンス以外も

そこで思い出すのがスライ・ストーンで、Africa Talks Youなどではドラムマシン(当時はリズムマシン?)を大々的にフィーチャーしたりしていた。彼もまたアーリーアダプターだったと言えよう。

ビートルズはムーグ・シンセサイザーやメロトロンを活用していたし、マイルス・デイビスはいやがるピアニストにむりやりエレクトリック・ピアノを弾かせたらしい。もちろん、今ではシンセサイザーサンプラー(メロトロンはサンプラーの一種だと思う)、エレピは定番の音色だ。

大物=アーリーアダプターが多い?

ここまで見てくると、大物にはアーリーアダプターが多いような気がしてくる。

しかし意地悪な自分は逆の発想もしてしまう。「大物でないアーリーアダプターは、理解されなかったのではないか?」という疑問だ。

固定客がいないとアーリーアダプターは生き残れない

その可能性はある。

例えば新楽器をうまく使った曲を作ったとしても、その作曲者がすでに「固定客」を掴んでいなければ、変な音だとして素通りされてしまうのではないか。

プリンスがあれだけ挑戦的になれたのは、彼を殿下と慕う熱狂的なファンがいたからでは?

そういえばポール・サイモンの「サウンド・オブ・サイレンス」は、最初は鳴かず飛ばずだったということだ。ボブ・ディランのフォークロックブームのあとにフォークロックアレンジにしたら売れたらしい。

失礼な話だがもし仮に、ポール・サイモンではなくディランがサウンド・オブ・サイレンスを書いていたらあっさり売れたのかもしれない。ディランはすでにポジションを確立していたから。

今も世の中にはたくさんのアーリーアダプターがいて、理解されずにくすぶっているのかもしれない。というか、そんな気がする。

まとめ

ここから言えること。

  1. 誰かのファンになることは無駄ではない。ファンになった対象を後押しするだけでなく、彼の挑戦も成功に導くことができる。
  2. アーリーアダプターとして成功したければ、まず大物にならなくては。ということはワンテンポ遅れるから、すでに大物でありアーリーアダプター的な性格の人にはどうしてもかなわない。

自分についていえば、どう見ても大物ではないから、まず大物になるフェイズからだ。…生きてるうちに間に合うだろうか。