義憤は崇高、そして危険
前提 義憤は素晴らしい
人のために怒ることができる人は素晴らしい。
無関係な人のために怒ることはなおさら良い。
直接の利害がない分、ある種の純粋さ、人間性の発露のようなものがそこにはある。
しかしながら、義憤には危険もある。
部外者の知識しか持たないのに、突然当事者のように問題に関わることになるのだから、混乱が生まれる可能性が高い。
アルスラーン戦記の例
アルスラーン戦記の奴隷解放がらみのいきさつが記憶に残っている。
アルスラーンが倒した敵の奴隷を解放しようとしたら、奴隷は主人の仇であるアルスラーンに襲いかかって来た。結果、奴隷は返り討ちで死んだ。
これはアルスラーンが、奴隷解放を唱えてはいても奴隷の実態(主人を慕っている奴隷もいる)を知らなかったから起きた不幸である。
実はすべては軍師ナルサスの掌の上だったりするのだがそれは置いといて、
こういう不幸は、世間でもありふれていたりしないだろうか?
アルスラーンはいい子
アルスラーンは王子ではあるが生い立ちが特殊だったりでフラットなものの見方ができる人物である。
そういうアルスラーンの目から見て、奴隷は解放されるべき存在だった。
奴隷解放は、我々の時代と同じく、おそらくは正義なのであろう。
そしてそういう正義、あるいは正義と信じるもののために行動を起こしたアルスラーンの感情は、義憤と同様、崇高だと言える。
いい子なのになぜミスったか
ではなぜアルスラーンの解放は悲劇に終わったのか。
それは目的が立派でも、手段が下手だったからである。
アルスラーンは主人を殺された奴隷にいきなり解放を告げるべきではなかった。ひとまず捕虜にするとかなんとか、ワンクッション置くべきであった。
ではなぜそのワンクッションが置けなかったのか。
アルスラーンが奴隷の実態を知らなかったからである。
問題は、知識なのだ。
言えること
義憤が素晴らしいものであることには変わりない。
ただ対象に対する知識なき義憤は、場合によっては失敗し、かえって対象の迷惑になる。
怒るのはいいが、その怒りをいったん胸に秘め、冷静にことを進めるべきだ。
……ってナルサスさんが言ってました。
余談
ナルサスは奴隷の子供を解放して部下にするなど、この問題についてはアルスラーンの先をいっている人物だ。
フラットな目を持つアルスラーンが奴隷解放を考えてくれていることは、ナルサスにとって嬉しかったに違いない。
アルスラーンはフラットであると同時に、王子という力も持つ。
部外者である権力者の義憤という、パワーとしての大きさに問題解決の期待を寄せないはずがない。
…があえてアルスラーンに試練を与えるあたり只者ではない。
その辺が完璧超人すぎてなんかムカつくのだが、義憤はナルサスを見習って慎重に行動に移すべきであろう。
映画や小説のストーリーにルールなんて無い 定石があるだけ
まず状況説明
GIGAZINEにこんな記事が載っていた。
この記事によると、映画や小説のストーリーにはルールがあって、それは
「1.YOU」「2.NEED」「3.GO」「4.SEARCH」「5.FIND」「6.TAKE」「7.RETURN」「8.CHANGE」という8つのポイント
を持ち、この順番に出来事を発生させているということらしい。
例に挙げられているのはスター・ウォーズのパート4だが、他にも当てはまるものが多くありそうだ。
特に「1.YOU」は強力で、物語で最初に主人公を紹介するというのは論理的にも実際のデータ的にも確かな論拠を持っている。しかし!
これは「すべて」のストーリーに当てはまる「ルール」では断じてない。
前述のルール? が当てはまらない例
例えば刑事コロンボ。「主人公」ではなく「敵役」の犯人が先に登場する。
いや、この反論にはさらに再反論はできる。コロンボは「狂言回し」であり、物語の実質的な主人公は犯人なのだ、と。
それではこれはどうか。「ダンジョン飯」の宝虫の回では、主人公のライオス一行が出るまでに別の冒険者一行(ガングロチーム)が出てきて宝虫にやられる。宝虫の脅威を描くことが主題の導入である。
しかし主人公はガングロでも宝虫でも無いだろう。あくまでライオスが主人公である(マルシルも主人公っぽいがあれはジョジョ4部の康一くんにあたる)。
が、主人公の定義について語りたかったわけではない。「すべて」ではないよということが言いたかっただけだ。
そして、「ルール」も否定したい。
そもそもルール? がおかしいという論
というかこちらを主に否定したい。
一体、物語にルールなんてあるのか。
あるように見えなくはない。例えばミステリには「アンフェア」という評し方があり、アンフェアという言葉は暗黙の「フェアなルール」を想定しているように思える。
しかし、アンフェアな傑作もある。「アクロイド殺し」は(ネタバレ)で(ネタバレ)なためアンフェアという評価が多かったようだが、傑作であるとの評価もまた多い。
ミステリにおけるルールとは、「それをするとミステリだと見てもらえますよ」というマナーだと思う。
そしてルールを破ったとしても、ミステリだと見てもらえないという問題はあるものの、ストーリーではある。ストーリーは成立している。しつこく書くが、ミステリではないとしてもストーリーは成立している。
ミステリに「アンフェア」という言葉があるからといって、ストーリーにルールがあるとは言えないのだ。
ルールなんてないさ ルールなんて嘘さ
やはりストーリーにルールはないと思う。定石、セオリー、マナーはあるとしても。言葉遊びみたいで恐縮だが。
スター・ウォーズの脚本家を含む多くの作者が前述の1.から8.のポイントをおさえて制作しているように見えたとしても、それはルールだからそうしているのではない。
そうしたほうが売れるから。
……というのが身もふたもなさすぎるとすれば、そうしたほうが効果があるからだ。
ダンジョン飯の宝虫の回を思い出せば、あの回でガングロ一行の描写に冒頭のシーンを割いたのは、宝虫の習性を描写しておいたほうが、ライオス一行の紹介をするよりも、効果があるからである。
連載ものだから、ライオス一行のことをすでに読者は知っている、という特殊な事情もある。
効果が高いと判断すれば、1.から8.のポイントはおさえなくてもよい。
もちろん九井諒子が、物語の形式について深い洞察をしているからこそ、あえて外すことができたわけである。「ひきだしにテラリウム」を見れば九井諒子のちょっと歪んだお約束への愛情がわかる。
結論
- 物語にはルールはない
- しかし、そうしたほうが効果が高いことが予測できる、いくつかのパターンはある
- マルシルはダメっ子かわいい
てか、SoundTrapやってる? オンラインでつながることの可能性
SoundTrapの紹介
「Soundtrap」というサイトというかWebアプリがある。
www.soundtrap.com
要はオンラインでの音楽制作アプリで、ログインすればどこでも作曲できる。
この手のものの中では大手のようで、音源もエフェクトもそれなりに揃っている。
昼休みにちょろっと遊ぼうと思って始めたのだが、当然ながら同僚の目に留まり、自分が作曲・別の同僚が作詞というコラボが始まってしまった。
その詞がなんかピュアで、自分はテクニックに走りすぎていたかもしれないなと思わされたりしたのだが、本題はそこではなく。
モバイルやクラウドの利点1
自分はモバイルアプリや、さらに発展したクラウドを利用したアプリを、外でもできる(モバイル)、どこでもできる(クラウド)と捉えていた。
そして外でも・どこでもできる利点を、考えたことを形にする速度の早さだと考えていたのだ。
歩いていてちょっとメロディが浮かんだりすることは誰にでもあると思うが、家に帰ってから書き留めるのと、モバイル・クラウドでその場で録音なりして記録するのでは、速度が違う。速度は鮮度にも通じるし、速いこと自体が快適だ。
ジョンレノンはインスタント・カーマをあっという間に作ってあっという間にリリースしたらしいが、ジョンほどのアーティストでなければそこまでの環境は整っていなかった。他のアーティストやあるいはアマチュアミュージシャンがあっという間に作ってあっという間にリリースするには、Web時代を待つ必要があったのだ。
モバイル・クラウドの利点1:アイディアを腐らせない
自分はモバイル・クラウドアプリの利点を、ジョンレノンのインスタント・カーマのようにやれることだと捉えていた。思いついたアイディアを鮮度の高いうちに形にしてしまう快適さ。
しかし、他の可能性は見落としていた。「どこでもできる」ということは、コラボレーションしやすいということでもある。
モバイル・クラウドの利点2
例えば会社の昼休みに、同僚とコラボレーションできる。これはクラウド時代じゃないとちょっと無理だ。
そこで思い出したのだが。
会社で同僚とコラボっちゃったのは、技術が距離を縮めた例といえるが、その縮め方は自分(筆者)が移動するというものだった。
しかし情報だけ移動させるやり方もある。いわゆるネット上でのコラボである。
モバイル・クラウドの利点2:コラボレーションの輪を広げる
実は前述のSoundTrapには、一つのプロジェクトを共同で作業するというGoogle Docsにも似た仕組みがある。
ネット上で誰か、アメリカ人だったりヨーロッパ人だったりアジア人だったりと距離を飛び越えてコラボできるかもしれない。
そっちのほうが「未来」な感じがする。
でもネトゲーもあまりやらない対人恐怖症な自分は、たぶんそういうことはしない気がする。対人恐怖症は時代にも置いていかれるのである。
プリンス良いよね あるいはアーリーアダプターとして生き残るには
プリンス良いよね
たぶんギターマガジンだったと思うが、プリンスのインタビューが載っててPC+DAWでの作曲について「昔からつまみをいじって曲を作ってきたから違和感はない(ドヤア)」みたいなことを言っていたのを思い出した。
プリンスが時代の先を行っていたのは間違いない。「I Would Die 4 U」という曲では「強弱の無いハイハットの16分打ち」が聴けて、音のバランスはちょっと違うけど、2000年くらいのR&Bのアレンジだよなあと思ったりする。
プリンスはドラムマシンを使用してのファンクが特徴的で、現在のR&Bとかソウルでのドラムマシンの存在感を考えてみると、まさにアーリーアダプターだ。
プリンス以外も
そこで思い出すのがスライ・ストーンで、Africa Talks Youなどではドラムマシン(当時はリズムマシン?)を大々的にフィーチャーしたりしていた。彼もまたアーリーアダプターだったと言えよう。
ビートルズはムーグ・シンセサイザーやメロトロンを活用していたし、マイルス・デイビスはいやがるピアニストにむりやりエレクトリック・ピアノを弾かせたらしい。もちろん、今ではシンセサイザー、サンプラー(メロトロンはサンプラーの一種だと思う)、エレピは定番の音色だ。
大物=アーリーアダプターが多い?
ここまで見てくると、大物にはアーリーアダプターが多いような気がしてくる。
しかし意地悪な自分は逆の発想もしてしまう。「大物でないアーリーアダプターは、理解されなかったのではないか?」という疑問だ。
固定客がいないとアーリーアダプターは生き残れない
その可能性はある。
例えば新楽器をうまく使った曲を作ったとしても、その作曲者がすでに「固定客」を掴んでいなければ、変な音だとして素通りされてしまうのではないか。
プリンスがあれだけ挑戦的になれたのは、彼を殿下と慕う熱狂的なファンがいたからでは?
そういえばポール・サイモンの「サウンド・オブ・サイレンス」は、最初は鳴かず飛ばずだったということだ。ボブ・ディランのフォークロックブームのあとにフォークロックアレンジにしたら売れたらしい。
失礼な話だがもし仮に、ポール・サイモンではなくディランがサウンド・オブ・サイレンスを書いていたらあっさり売れたのかもしれない。ディランはすでにポジションを確立していたから。
今も世の中にはたくさんのアーリーアダプターがいて、理解されずにくすぶっているのかもしれない。というか、そんな気がする。
まとめ
ここから言えること。
- 誰かのファンになることは無駄ではない。ファンになった対象を後押しするだけでなく、彼の挑戦も成功に導くことができる。
- アーリーアダプターとして成功したければ、まず大物にならなくては。ということはワンテンポ遅れるから、すでに大物でありアーリーアダプター的な性格の人にはどうしてもかなわない。
自分についていえば、どう見ても大物ではないから、まず大物になるフェイズからだ。…生きてるうちに間に合うだろうか。
はてなブログに出戻ってきた
現況
自分の志向としてなんかもう全部自分でやりたい癖というのがあり、ミキリハッシャターミナル http://mikiri.me/ というサイトを作ってWordpress入れてテーマを弄って遊んでいた。
それは楽しかったのだけれど、見てくれるユーザーが少ないというかほぼツイッターからのアクセスしか無かった。月50PVくらい?
翻ってミキリハッシャブログ(当ブログ)は、放置していたにもかかわらず月300PVくらい? のアクセスがあったようで、それにさっき気づいて愕然とした。
やはりはてなにははてな独自の固定客がいて、まあ良い悪いはあるにせよ見てもらえるのははてなブログの方なのかなあと思った次第。
逡巡
とはいえ、自分の志向としてなんかもう全部自分でやりたいのは確かであり、はてなブログのカスタマイズ性をしらべたら「スタイルシートまではいじれる」というある種の壁があるようでどうしようかな〜と思ったが、
いろいろ迷った結果「書く」のはここ(ミキリハッシャブログ)、Webデザイン的な実験はローカルなりミキリハッシャターミナル、「音楽」はニコニコとYouTubeとSoundCloud、つぶやきはツイッターという分担制が良いかなあと思ったので、そうしてみることにした。
以前はいろいろ手を広げすぎた反省からミキリハッシャターミナル(ターミナル=終着駅)に落ち着こうとしていたわけだが、また手を広げる方向に舵を切ったわけだ。
今後
定期的に更新できたらいいなあと思う(断言はしない)。
「音楽」がニコニコ、YouTube、SoundCloudとちょっととっちらかっているのでなんとかしたいが、ボカロ=ニコニコという図式はまだ崩れてはいないようで難しいかもなあ。
アマゾン・ビデオ・ダイレクト(Amazon Video Direct(AVD))に楽曲を投稿したのでうろ覚えメモ
始まった
アマゾン・ビデオ・ダイレクト(Amazon Video Direct(AVD))が始まった。新しもの好きの見切り発車Pとしては一つ試してみようと曲の動画を投稿したので、参考までに書いておく。
今回登録したもの
このブログの管理人はボカロPをやっているので、Niconicoに投稿した動画をふたつほどこちらに回してみた。動画とはいえ静止画に歌詞だけ出るやつで、作るのは簡単。たぶんAmazonプライムビデオの中で一番しょぼいと思う。
まずは登録
https://videodirect.amazon.co.jp/にてユーザー登録する。
自分はもう登録してしまったのでスクショを用意できないのでアレだが、
アマゾンビデオダイレクト(amazon video direct)早速登録してみた。 - 時期尚早
Amazonビデオダイレクトのアカウント作成と動画投稿の注意点いろいろ
あたりのブログさんが参考になる。
というか、公式のサポートが貧弱な気はする…
登録でのハマりどころ
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- .co.jpと.com
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アマゾン・ビデオ・ダイレクト(Amazon Video Direct(AVD))の登録先URLは、.co.jpと.comがある。
自分はたまたま.comのアカウントを(AmazonWebサービス目的で)持っていたから.comで登録できたのだが、.co.jpのアカウントを持っている人は.co.jpで登録しないといけないようだ(未確認)。
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- 税金について聞かれるのでビビる
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プロフィールの登録が終わると、銀行口座の登録。そしてそのまま流れで税務情報まで聞いてくる。Amazonさん大胆。
幸い、アンケートに答えることで税金の扱いをどうするかチャート的に決めてくれる。とは言え、事前に覚悟して予備知識を仕入れておいたほうがいいのは確かだ。
ここまでで登録終了
けっこうたいへんだった。特に半角英数字しか使えない件は、エラーメッセージの出し方を工夫すればすぐそれとわかるはずなので改善を期待したい。
いざ投稿!
登録が完了するとダッシュボード(アクセス数などの情報を一覧できる)に飛ばされる。そのページのわかりやすいところに「あなたのビデオ」というリンクがあるのでそこをクリックするとビデオの管理画面。さらに「タイトルの追加」とたどることで動画投稿画面に行ける。
ユーザーがメインで使用するであろうこの部分のUIはわかりやすい印象。投稿がらみのわかりづらさでユーザーが減ってなければいいけど…。
まずはダイアログ形式でタイトル(題名・商品名)、カテゴリ(自分の場合ミュージックビデオ)、言語(自分の場合日本語)を選択。
すると動画の詳細を入力する画面につく。まだファイルをアップしていないのに? そう、動画の投稿よりも情報が先に来るのだ。ここ、ファイルのアップを先すれば動画のタイトルとか自動的に読み込めていいんじゃないかという気はするが、なんか考えがあるんだろう。
とにかく詳細項目を埋めていけばOK。項目の一つとしてファイルをアップする場所もある(メザニンファイルと呼ばれている)。
投稿でのハマりどころ
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- キーアート
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キーアートとはいわゆるサムネイル、Amazonで検索した時に最初に見える画像になる。アマゾン・ビデオ・ダイレクト(Amazon Video Direct(AVD))の場合は、YouTube,Niconicoのように動画ファイルの中の任意の一瞬をサムネイルにするのではなく、別個の画像ファイルを用意する形式になっている。
まあ特にこだわりがなければ動画の任意の一瞬を静止画にして書き出せばいいと思う。16:9のファイルの場合は。
そう、必要なファイルは2種類(他、オプションでもう1種類)あり、そのうちのもう一つは3:4という厄介なサイズなのだ。縦が4で横が3。
画像加工ソフト(Photoshopなど)が無いとこれだけでけっこう大変だと思われる。
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- キーアートその2
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自分の場合、16:9も3:4も動画にする前のファイルを持っていたのでそれを使ったのだが、ここで落とし穴。動画サイズはNiconicoのサイズに合わせていたので、それをそのまま使うと「画像が小さいですよ」というエラーが出る。後述するがアマゾン・ビデオ・ダイレクト(Amazon Video Direct(AVD))は更新の反映に時間がかかるので、エラーは極力つぶしておいたほうがいい。単に16:9を用意するのではなく「1920x1080 」を。3:4のほうは「1080x1440」を用意するようにしたい。今回の記事で言いたかったのは実はここである。「1920x1080 」と「1080x1440」な!
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- 字幕
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個人的にプロフィール登録での半角英数字、キーアートでの3:4と並んで難関だと思うのが字幕を用意する必要があること。動画に埋め込むのではなく、外部ファイルとしてアップする必要がある。
字幕はsrtという形式がテキストエディタでも作れるのでいいかなと思う。
上記の画像のように、字幕番号(?)、時間、字幕の内容を改行で区切っていれていけばいい。
ちなみに、英語であることを要求される。自分の場合翻訳サイト丸写しで凌いだが、それは音楽がメインだからできることで、しゃべる内容が重要な場合この字幕ファイルは鬼門になりうる。
投稿も済んだら反映を待とう
投稿が済んだらやがてAmazonの検索に引っかかってみれるようになるのだが、最低3日はかかる模様。
3日である。YouTubeのスピード感とはかなり趣が異なる。
まあ逆に言えば住み分けになっていいかなあと思うが、さきほど書いたように何かエラーが出て、それを修正するのも3日ぐらいかかる。登録は遅くてもいいからそこは早くして欲しかった…
それで反映されたのがこの動画。
リンクを踏んでくれた人だけ気づく事実だが、サムネの画像と中身の画像が異なる。うっかりミスで違う画像をアップしてしまったのだがその修正待ちという状態。3日ぐらいかかると思われる。恥ずいので早く直してほしい…
総評
アマゾン・ビデオ・ダイレクト(Amazon Video Direct(AVD))はYouTubeとの比較で語られることが多いが、実はそちらとは結構感触が違う。事前準備をしっかりした、ガチビジネスの人が想定されていそうだ。
現段階では説明不十分な感があり、字幕やキーアートなどの用意も大変。よって初期のアマゾナー(アマゾネス)はわりとプロに近い部類のアマチュアの人が多くなるのではないか。自分もNiconicoへの投稿でけっこう動画慣れはしていたつもりだが、面食らう場面も多かった。
向いているのは瞬発力よりもきっちり作りこみ、一作あたりに多くの熱量をかけられるタイプの創作だろう。例えば、「映研が年に一度の自主制作映画を作る」とした時、上映会などを行うのと平行してアマゾン・ビデオ・ダイレクト(Amazon Video Direct(AVD))で売ればいいと思う。
あとはアマゾン・ビデオ・ダイレクト(Amazon Video Direct(AVD))という呼称がややこしいので早くなんか愛称が生まれるといいなあ。
人を殺してはいけないのは「人間原理」のせいなのか
この記事を思い立ったのはphaさんの日記(豚は殺してもいいけど犬は殺しちゃいけないのか - phaの日記)をニュースアプリで見かけたのがきっかけだが、本筋はあまりそことは関係ない。
「人間原理」という言葉をご存知だろうか。Wikipediaによると、
人間原理(にんげんげんり、英語: anthropic principle)とは、物理学、特に宇宙論において、宇宙の構造の理由を人間の存在に求める考え方。「宇宙が人間に適しているのは、そうでなければ人間は宇宙を観測し得ないから」という論理を用いる。
だそうである。
例えば、宇宙が始まった時に温度に「むら」があったという。そのむらがまわりまわってエネルギーになり、原子になり、ひいては人間になったという。
上の説明は大雑把だが、とにかくなぜむらがあったのか。別に均一な宇宙でもいいではないか。
そういう問題の答え方として登場するのが人間原理だ。この場合、むらが無かったら人間は誕生していないはず。なので人間が宇宙を観測する時、その宇宙には必ずむらがある。
同様に、
- なぜ宇宙は幅、高さ、奥行き+時間の4つで構成されているのか。
- なぜ地球はこんなにも生命に適した環境なのか。
といった質問にも人間原理で答えられる。そういう環境じゃなかったら、今あるような人間は生まれてこなかったので、人間が生まれている以上、今ある環境なのは当然だという論法である。
さて、人間原理についてわかったところで、それが「人を殺してはいけない問題」とどう関係するのか?
こういう筋道が立てられるのである。
- 過去には「人を殺してはいけない村」と「人を殺していい村」があった
- 後者は殺し合いで滅び、前者はまあ軋轢はあるにせよ生き残った
- 今現在、人を殺してはいけない文化が多数をしめているのは、「人を殺してはいけない村」でないと生き残れないからである
なかなか説得力のある説だと思う。しかし自分はこの説に賛成できないのだ。
まず、現在において人を殺してはいけない理由を見てみよう。
ツイッターに書いたことと重複するが、こういう流れだと思う。
- 人間は本来的に自由な生き物である。そして自由の侵害は許されない
- 殺人は究極の自由性の侵害である。から許されない
- 殺人にカウントされない殺人として、「戦争での殺人」や「正当防衛」がある
- 戦争での殺人は許容される(戦争がいいと言ってるわけではない)。それは、兵士たちがみな「国を守るため、危険に身を投じる」という同意のうえに戦闘を行っているからだ
- 戦争で民間人を殺すことは許されない。民間人には同意がないからだ
- 正当防衛が許されるのは、先に自由を侵害しようとしたのは相手側だという理由だろう
つまり殺人が許されないのは、人間が本来的に自由だからだ。自由を守るために殺人の自由を捨てたのだ、というのが自分の考えである(ちょっと社会契約論っぽい)。
さて、問題は、その本来的自由がどこから来たのかだ。
先の「人間原理」が成立するなら、つまり殺人が許されないのは殺人者の村が滅んだからだとするなら、本来的自由は「自然選択」によるものだということになる。
つまり、進化論と同様、「たまたま」人を殺さない人類が生き残ってきたことになる。
「たまたま」じゃ嫌だ! と思ったのだ。
しかしたまたまではなく、必然的に人間は自由なのだ、と唱えるのは難しい。
というか、宗教の領域に入ってしまう。
つまり、神が人を今あるように作られたなら、人間の自由さや人を殺すことをタブーと思う態度などは神の意志ということになり、必然的だということになる。
しかしそれじゃ、神様の、言い方は悪いが「気まぐれ」になってしまう。「たまたま」とそう変わらない。
それも嫌だ! と思ったのだ。
ここまで記事を書いておいてなんだが、自分はまだ解答を用意できていない。
人を殺さない理由である(と自分が思う)人間の自由を尊重する態度は、偶然の産物なのか。人間原理の賜物なのか。
それとも、何か理由があって、必然的なものなのか。
これからも暇なときに考えてみようと思う。